昭和48年03月07日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「疑いを離れて、広き眞の大道を開き見よ、我身は神徳の中に生かされてあり。」

 神徳の中に生かされてあると言う事が分かる、そこに一切がおかげとう、実感が生まれてくる。いうなら神様の、ふところの中にあると言う事ですね、神徳の中にと言う事は、親神様のふところの中に有るのだと言う事です。そこで、どう言う事になるかというと、一切の事にお礼を申し上げる、と言う事になる。 一切の事にお礼が申し上げられる、それを先日から、大和心と言う事で、大きな和の心と、大和心といいう心は、一切の事にお礼をいえれる心だと、言う事です、だからそれだけの事です。
 ですからそこの所を、疑いを離れてと仰るのです。本なこつじゃろうか、というたらもう駄目なんです。そこの所が矢張り、素直に聞かなければならない、我身は神徳の中に生かされてある、それは、親神様のふところの中に、抱きかゝえられて折る様なものだと言う事。ですから一切がおかげ、もうこれは困った事だと思うて、お願いをしておる事でもです、実は困った事じゃないのですから、お礼を申し上げる事なんです。
 難儀な事だというて、その難儀から逃れようとして、お願いをしておりますけれども、実をいうたらお礼を申し上げる事が、一番間違いのない事なんです。子供が例えば言う事を聞きません、どうぞ云う事を聞きますように、というてお願いしよる、実はその言う事聞かん、その事がおかげなんです。ですからお礼を申し上げる。これは一切の私共難儀と思うておる、その難儀がです、それはおかげなんです、ですからその事に対して、お礼を申し上げる事になってくる。
 そこからです初めて広き眞の大道というのが、ハッキリしてくる訳なんです。いわゆる広い広い眞の道がハッキリしてくる、ですからこゝん所は反対先ずはです、私共が一切の事にお礼を申し上げる心をまず作る事です。もううちの子供が悪い事をして困ります、というても実をいうたら、お礼を申し上げねばいけない、それを分かりやすく申しますと、三代金光様が御在世の頃、ある先生が金光様の所へご挨拶に出られた。
 ところが金光様のお部屋に、孫さん達が何人も入って来て、もう一生懸命あばれなさる、そして、もう足をダ-ンと襖に持った行ったり、障子に持って行ったりして、障子を破られる、それで先生が、金光様に「大変お賑やかな事でございますね、」というて、ご挨拶を申し上げた。そしたら「ハイよう働いてくれます」と仰ったそうです。ハイ、よう働いてくれますと、もう悪くて困りますとは仰らなかった訳です。
 もう一事が万事に、金光様の前にある一切の事柄が、お礼の対象であったと、成程お孫さんが病気か何かで、ちゃあんと寝て、御飯もいけんちゅうごたるなら、それはもう大変な心配、子供が一生懸命悪そうしよると言う事はもう、働いておってくれておる事、ハイ、よく働いてくれますと、と言う様にです、私共は一事が万事に、実をいうたらお礼を申し上げねばならない事をです、それを困った事として、そしてその事が、どうぞおかげになりますように、というて願うておる。
 それはね、分らんのですから願うていゝのです、又それを願うて、おかげを頂く事もよいのです、けれども本当の、眞の大道を分からせてもらう為には、いわゆる大和心になる事です。大きな和の心、それは一切の事に、お礼がいえれる心なんです、それを目指す事です、金光様の御信心とは。私共の周囲に、もう一辺お礼を申し上げねばならない事を、お礼を申してない事が、どの位あるだろうか、それを全部お礼の対象としていく事が、疑いを離れなければ。
 御神訓というのはですね、教祖の神様が神様から、直接お頂きになられた事なんです、御理解というのは、神様から頂かれた事を教祖の神様御自身、信心生活の上に現されて、御自分の信仰体験なんです。ですからこの御神訓というのは、もう神様直々のお言葉なのですから、絶対の間違いがある筈はないのです。それは教祖の神様の御理解に於いても、しかりですけれども、神様のお言葉、その為に氏子疑いを離れてとこう仰る。
 そこで私共がです、一切の事にお礼を申し上げれる大和心を、いよいよ頂いていく事に、精進させて頂いておるとです、成程成程と、本当におかげであった、あれもおかげであったと、分かってくるようになるのです。そしてこれも又、おかげであったと分かってくるようになる、だから眞の信心が出来るのです、だから眞の大道が愈分かってくるのです。 私は昨日、「生きた宗教に眼をさませ」と頂いた。
 生きた宗教に眼をさまさなければならない、例えば今日頂いておるような事を、例えば、本当にそうだと分からなくても、疑いを離れて神様が直々あゝ仰って下さってあるのであるから、一切の事に、お礼を申し上げる気にならにゃいけん、と言う事になって、お礼を申し上げる、言わば生活にならせて頂いておるとです。疑いを離さなければおられない程しの、体験が生まれてくるのです。
 それを真理の言葉をもってすると、此方の道は喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせん、という働きが生まれてくるのです、これは真理です。だからその真理の追求であり、その真理を把握するという事の為に、まずはそんならこゝのところ、一切の事にお礼を云う心持ちそういう稽古を一生懸命させて頂く、そうしていくところにです、成程疑う余地が無い程しに、眞の道がハッキリしてくるのです。
 そこからいわゆる生きた宗教に、眼を覚ます事が出来るのです。成程、天地の中にあるとゆう事はです、私共がね、親神様のふところの中にあるのと、同じだと言う事なんです。 そして適当にお乳を与えて下さる、適当にお育てを下さる。生きた宗教、生きた神を信心せよと仰る、私はそこに初めて、生きた神様を信心させて頂いておる、生きた宗教に、いわゆる本当の信仰に、眼を覚まさせて頂くというところから、神徳の中に生かされてある喜び、本当の神恩報謝の生活が出来るという事。
 まあいえば是だけの事です、けれども私共はそれを難儀と見ておる訳です、そしてその難儀から逃れたいとお願いをする信心にとヾまっておる訳です。そうではなくてその難儀というものが本当に分かったら、それは困った事でも難儀でもない、お礼を申し上げる事ばっかりなんだと言う事です。そこでそう言う事をいよいよそういう例えば、一切の事にお礼をいう心と言った様なものを、本当なものにする事の為にです、私共が日々先日から頂きます、自分の思いを都度都度に、洗い清めてゆかねばならんと言う事です。
 これは改めるとか、研くとかゆう事じゃありません、今、例えば思うておる心持ちとゆうものがです、浅ましい、又は良くない、又は、どうにも出来ない、自分ではどうにも出来ない、先日から私が、そんなら、善導寺の御大祭を頂き乍ら、こんな気持で拝んでは相済まん事なんだけれども、どうにも出来ない、云うなら気持をです、思うております時に神様は、御神前に出てお装束を着けて、そしてお祭りを、自分も奉仕をしておる心持ちになれと、こう仰る。
 あゝほんな事、自分も装束を着けて、御神前に上っておる、奉仕をしておるつもりだったら、と思うて、初めから形の上で、装束を着けたつもりで、威儀を正して座りなおして、持っておる白扇を笏がわりと思うて、ひざの上に立てゝ、そして冠を頂いておるつもりで御神前に向わせてもろうて、御祈念をさせて頂いておったら、いつの間にか、有難い終始お祭として頂けた。
 これは私が、その時の気持を洗い清めたのです。だからその時の、その時点その時点の、心持ちを洗い清める精進なんです。お互い様々な、御用にたずさわっており乍らでもです、こんな気持じゃいけない、と思うたならば、それを急ぐ事はいらん、まず自分の心を、洗う事に清める事に 私は時間を惜しんではならないと思う、それからでいゝのです。昨日の朝の御理解の中にも申しましたように、教祖の神様の、様々な難渋の中から、もう一辺読んでみましょう、
 「天地金乃神様への御無礼を知らず、難渋致し今般天地金乃神様おしらせを下され有難し」と、神様によっての生き方、信心生活に感動し、むせんでおられるお言葉だと拝します。天地金乃神様への御無礼、これが難渋であったと、こうそんなら、天地金乃神様がどう言う事を、教えられたかというと、いわゆる思い違い考え違い、天地に対する御無礼とは、そう言う事。
 いわゆるおかげな事を、難儀な事だと見ておると言う事、そこんところを、天地金乃神様への御無礼を知らず難渋致し。これを昨日は、御理解三節から申しました。私共の難儀の元とゆうのは、天地金乃神様への御無礼以外にはない、それは難儀の元とゆうのが沢山ある、何代前の霊さんが助かってござらんからとか、家の相が悪いからとか、判の相が悪いからとかと、それは有るかもしれん、私はよく分らんけれども、一つの学問になっている位だから、まあ有ると仮定致しましてもです。
 私共が天地の神様の、おかげを分からせてもろうて、思い違い考え違いを改めて、詫びるところは詫び、お礼を申し上げるところは、お礼を申し上げる生活にならせて頂いたら、自ずと生れてくる大和心、いわゆる和賀心。これによって一切の、難儀の根というものは、消えてなくなる程しのものだ、というのでしたよね、昨日の御理解は、今日はそこんところを、天地金乃神様への御無礼を知らず難渋致し、今般天地金乃神様おしらせを下され有り難し。
 今日は天地金乃神様が、おしらせを下されてある、これは神様の直々のお言葉、それを疑いを離れて、広き眞の大道を開き見よ、我身は神徳の中に生かされてあるぞと教えておられる。その訳を知らずに私共は、あゝ困った子供でございますと、言う様な言い方をしておったのが、よく働いてくれますと、いえるようになると言う事なんです。天地金乃神様が今日、このようにおしらせを下され有難しと、今日一日全ての事を、有難いといういき方から、おかげを頂いておりますとです。
 成程これが広き眞の大道だなと、疑うにも疑う余地が無い程しの、おかげが生れてくる訳です。私はそういう心の状態をもって、その親に報いようという信心が今、合楽で言われておる五つの願いなんです、そういう信心をふんまえての 五つの願いなのです。これは子供としてやむにやまれない、親の心が分かれば分かる程その心に添い奉りたい、というのがです、五つの願いになってくる訳です。天地金乃神様への御無礼をしらず、難渋致し、今般天地金乃神様、おしらせを下され有難し。
 今日はだから、こゝのところを、私共が難儀と思うておる 難渋致しというところをです、難渋しておるならば、今日の例えば神様の、天地金乃神様おしらせを下され、という頂き方をさせてもらってです、まずはお徳の中に生かされておるという事実を、私共が体認する意味合いに於いてでも、今迄不足に思うておったり、困った事難儀な事と思っておった事に対してです。
 大和心をもってお礼を申し上げる。一切をお礼を申し上げる対象と、させて頂くという生活、眞の信心生活ですね。そこから生きた宗教への、言わば開眼も出来る事になり、その過程に於いてです、その時その時の、例えば自分の思いというものを、有難しとお礼を申し上げる、吾ながら自分の心を拝みたい時もあろう、吾ながらいや気がさすような、心の状態の時もあろう。
 そういう時をです、こういう状態でよかろうかと思うた時です、洗い清める心になる、そこからいよいよハッキリと、眞の大道を開き見よと仰る、眞の大道がハッキリとしてくると思うのです。疑いを離れてと、疑うにも疑う余地が無い程しのおかげを頂いた時に、天地が生きてござるという事実も、又その生きた働きを、自分達の小さい事柄の中にも、頂きとめる事が出来るという、体験が生れてくる訳ですね。
   どうぞ。